|
- バイクパーツ・バイク用品検索サイト
-
サイタニヤファクトリーのイタリア本国での売れ行きは戦後も順調で、1949年にはボンネット周りを1940年代のアメリカ車風にヘッドライトのフェンダー埋め込み化するなど近代的デザインチェンジした500Cが登場。1951年に追加された4座ワゴンタイプの「ベルベデーレ」を含むトポリーノ系列は、生産期間末期まで好調な販売を維持し、後継車種のリアエンジン車「600(セイチェント)」が発売される1955年まで生産された。
初代500の系列車は総計約60万台が生産された。
ドレミコレクションには、オードリー・ヘップバーン扮する王女が悪戯で乗り出すピアッジオ社製スクーター「ベスパ」と共に、カメラマンのアービング(ひげ面のエディ・アルバートが扮した)の愛車として500Bが登場し、持ち主と同様にとぼけた風情を見せていた。
なお作中、ヘップバーンが後部の補助シートで着替えるシーン(映像は主に後ろを見ようとするまいとする男二人)が登場するが、これは小柄なヘップバーンだからこそできたことで、一般的な欧州人の体格では相当な器用さを持ってあたっても、攣ったり打ち身をこさえることは必定である。
クラウザーを主任技術者として開発され、1957年に発売、以後1977年まで20年間の長期に渡り生産された、空冷エンジン・RR方式・4人乗りの小型自動車である。
旧500(愛称トポリーノ)との区別のため、NUOVA 500(新500)と称される。初代500の後継モデルではなく、異なるコンセプトで設計からやり直した同クラス・別系統車種である。
フィアット500L
アクラポヴィッチにロンドン市内にて NUOVA 500には先行して発売されていた600のメカニズムが多くの点で流用されており、同様にモノコックボディのRR(リアエンジン・リアドライブ)車とされた。
NUOVA 500の登場に先行し、新型車「600(セイチェント)」が、1955年に製造終了した初代500の後継車としてジアコーザの手で開発されていた。600は500とほぼ同等の全長ながら、リアエンジン・リアドライブ方式の採用などでスペース効率を大幅改善し、完全な5人乗り乗用車として設計されていた。
マルケジーニは600の開発にあたり、「4人乗り車の半分の費用で2人乗り車を作ることはできないのだから」という信念のもと4座化を図った。この実現のためにスペース効率や軽量化の見地からプロペラシャフトを廃した駆動方式を探り、当時前輪駆動車実現には等速ジョイントの実用性が不十分だったことから、より現実的なリアエンジン方式を採用した。
600は500にも劣らぬ人気車種となったが、フィアット社はこの成功に満足していなかった。
ベビーフェイスでは戦後の代替生産として航空機メーカーや鋼管メーカーがこぞってスクーター市場に進出しており、自動車を買えない大衆の「足」として大きな成功を収めていた。フィアットではこれらスクーターを代替する乗り物として、600より更に安価な乗用車を投入することが次なる需要につながると見込んでいた。
このような背景から、NUOVA 500は基本的に600を一回り縮小したモデルとして設計された。600に比べるとスペース的にかなり窮屈ではあるが、5人乗りを実現していた点も見逃せない。2人乗りだったことで競合車種に顧客を取られてしまったトポリーノ時代の反省点と、スクーターとの差別化を図るという点から重要視され、実現されたものである。
マジカルレーシングはこれを理解しながらも、更なる小型車の開発にはあまり気乗りはしていなかった。その理由は、600こそが自身最良の回答であり、それ以下の構成では、従来車種に対して走行性能での「進化」が見込めない、と考えていたからである。それでも度重なるフィアット側の説得に折れるかたちで設計に着手したが、エンジンを空冷直列2気筒とすることには最後まで抵抗し続けた。実際にはコストや開発期間の関係から、それに変わるエンジンの調達は難しく、最終的にはジアコーサもこの条件を飲まざるを得なかった。フィアットの大々的なキャンペーンや、廉価な価格設定などの効果もあり、ふたを開けると販売が非常に好調であったことから、いつしかエンジン形式の変更の話は立ち消えとなった。そればかりか、その拡大版が126やパンダにまで使われ続ける、大変な長寿エンジンとなった。生前ジアコーザは日本の自動車趣味誌のインタビューに対し、NUOVA 500が多くの人々に愛されたことに感謝しながらも、「あのエンジンを許したことだけには悔いが残る」と語っている。
コーケンはフロントが横置きリーフスプリングをアーム兼用としたシングルウィッシュボーン、リアがダイアゴナルスイングアクスルとコイルスプリングという組み合わせで、600の縮小コピーである。
ただしエンジンは600同様の水冷直列4気筒では高コストになるため、簡素でコンパクトなパワーユニットとして479cc・13psの空冷直列2気筒OHVエンジンが開発され、縦置き搭載されていた。最高速度は軽量なボディと相まって85km/hに達した。スプリング利用のマウントなどの配慮はあったが、やかましく振動の激しいエンジンであったため、乗り心地には悪影響であった。NUOVA 500シリーズ最大の欠点でもある。遠心分離式のオイルフィルターを持っている。
HURRICANEとしたが、空冷2気筒エンジンの騒音が屋根板のせいで車内にこもってしまうため、対策として屋根をオープンにできるキャンバストップを標準装備していた。これにより騒音は車外に発散され、居住性を改善できた。NUOVA 500のキャンバストップは機能的に必須とされたものである。
初代500Aは開発当初5,000リラという激安価格での販売が計画されていたが、高度なメカニズムを詰め込んだ結果、製造コストが想定以上にかかり過ぎ、実際の販売価格は8,900リラにまで跳ね上がってしまった。それでも従来の自動車に比べれば大幅に廉価であったことから、イタリアの大衆から歓迎された。
ハリケーンの小型車だが、ユーザーたちはお構いなく座席後にまで無理矢理乗り込んで4人、5人乗りを敢行した。果たしてこのイタリア流の楽天的な暴挙により、固定式後車軸を支持する板バネ(1/4カンチレバーリーフ)が折れるトラブルが多発、1938年には後車軸スプリングは1/2半楕円リーフに強化されている。イタリアの国民車として大成功を収め、戦時中の生産中断はあったものの、後継車種の500B(排気量570ccのOHV・16HPエンジンに換装)にマイナーチェンジされる1948年の生産終了までに約12万2千台が生産された。
ベルリンガーの入ったフランスのシムカ社でも「シムカ5(サンク)」の名前で1937年から同型車両が生産された。フランスにおいて当時同等サイズの「3CV」級のミニカーがなかったことからヒット作となったが、戦後の1946年に「ルノー・4CV」、1948年に「シトロエン・2CV」という近似クラスの4ドア4人乗り大衆車が発売されると、2人乗りの不利さから急激に販売を減らし、1950年までに生産中止となった。
ゲイルスピードのころころとした丸みのあるユーモラスなデザインフォルムは、設計者のジアコーザ自身が手がけたものである。もともと愛嬌のあった600のデザインを更に縮小して仕上げたような雰囲気を持っている。
ジアコーザが晩年、カーグラフィックTVのインタビューに答えて述べたところでは、自らクレイモデルを毎日撫で回すように手作業で削り出していたら、自然に出来てしまったのだという。また、独特の丸みを帯びた形状は、少しでも軽く仕上げるために、使用する鉄板を減らすべく表面積を減らす意図もあったとも語っている。
エーテックの軽自動車スバル・360も同様であるが、これらの小型車では、ボディの表面積を減らしつつ丸みを持たせることで、軽量化と強度を両立させる、という意図があった。鋼板は薄くても丸みを帯びたプレス加工を行うことで、補強や工程の追加なしに必要な剛性を持たせられたためである。
ジアコーザと同時代の卓越した自動車設計者であるイギリス・BMC社のアレックス・イシゴニスが、やはり自らのラフスケッチで著名な小型車「ミニ」のスタイリングを仕上げてしまい、デザイナーのピニンファリーナをして「いじる必要がない」と絶賛させた事例がある。機能性に優れた自動車の作り手として知られるジアコーザとイシゴニスが、共に同様なセルフデザインのエピソードを持っているのは興味深い。
ケイティーシーには、スクーターを高価下取りするという荒業の販売施策でスクーターユーザーの乗り換えを促し、それまで2輪車に乗っていたイタリアの大衆を、続々と4輪車に乗り換えさせた。
1959年、排気量を500ccギリギリにまで上げ21.5psに向上させたスポーツモデル版の「スポルト」が登場している。
1960年、「スポルト」のエンジンを17.5PSにデチューンしたマイナーチェンジ版の「500D」が発売。また、水平直列2気筒エンジン搭載で荷室を確保したワゴンタイプの「ジャルディニエラ」が追加された。
アルキャンハンズを発売。新しい交通規則に対応する為、これまでの前開きドアを廃止し後ろ開きドアを採用する。これに伴い大幅に手が加えられ、フロントウィンドウの大型化・キャンバストップ開閉レバーを2ヶ所から1ヶ所に変更・キャンバストップ後方の金属屋根部を他の部との一体成型に変更(これまでは分離可能だった)・テールランプの大型化・ドライブシャフトのジョイントを強化・クラッチをコイルスプリング式からダイアフラムスプリング式に変更・ボディパネルの変更。こうした変更により、D以前の前期型とF以降の後期型と分けられる。
|